相対正義論13
満月
満月の晩には、魔力が高まる。
鬼が動くとしたら、今日という日ほど絶好の日和は無い。
吽が渓の元に知らせを持ってきたのは、5月17日夜10時過ぎのことだった。
急いで起き上がり、そのまま準備をする。
ちょうど眠りに就こうとしていた渓はパジャマとして浴衣を着ていた。じい様の若いころには下着のような扱いだったらしいが、現代社会では浴衣で外に出ても別におかしくは無い。ただ少し冷えるので、適当な羽織に袖を通す。
霊木で作られた愛用の護身刀を帯にはさみ、吽の後を追い外に出た。
見上げると月は新円を描いている。ひと月ほど前まで月を覆っていた桜の雲も無くなり、煌々と輝いている。
概念歪曲場。そう呼ばれる異空間を、鬼はそれぞれ持っている。それは一般の人間に自らの存在を悟られないようにするためのものであり、「狩り」をしやすくするものでもある。
渓のような術師もまた、似たような【場】を用いることがあるがそれは鬼が用いるときと意味合いが異なる。術師が一般人に自らの存在を悟られないようにするのは、彼らを遠ざけ、鬼との戦いに巻き込まないようにするためである。
吽が、振り返りながら渓を案内する。
渓は違和感を感じていた。吽の様子からすると、現場はもうすぐだ。なのにいつも感じる鬼の概念歪曲場の気配がしない。…いや、しないというのは間違っている。微弱な、鬼のような…鬼にしてはそれが、弱すぎるのだ。
吽が導くのは、羽取先輩が4月の末日に襲われた町、そのエリアに入る少し手前のビジネス街だ。ビジネス街というのは少し規模が小さいか、事務所が集中するエリアだ。昼に働いていた人々は帰り、夜になれば静まり返る。商店にはシャッターが下ろされ、普段なら悪ガキどもが騒いでいてもおかしくはないのだが、連日の事件のせいかこのあたりにはいない。
がきっ、がきっ、ぐきっ。
不愉快な音が、ビルとビルの間から聞こえてくる。これほどまでに近づいてやっと、概念歪曲場の痕跡を感じることができた。
がきっ、ぐきっ。がつん。
おかしい。
ごきっ、ばきん。
鬼の気配は、音の出所と違う。
対象に気づかれないように、慎重にビルから顔をのぞかせる。
渓は思わず息をのんだ。
人の首を、誰かが切っている。
首を切っていたのは、羽鳥侑真。
首を切られているのは、ジーンズにトレーナーを着た、少年のようだ。首に残された歯型と、ほんの少しだけ残されていた血液の飛散は、渓の距離からは見えない。
次の瞬間、渓の後ろ側から大きな音がした。
『なっ…?!』
概念歪曲場の気配。振り向くと、すでに何もいない。数メートル離れたところにあったゴミ箱が倒れていた。
『こんなに近づくまで察知できないなんて…』
物音に羽取が気がついた。
「お前は…」
目を見開いて、驚いたような顔で渓を見つめている。
「どうしてここに、いや、そんなことより…」
ひどく混乱している様子だ。
首を切る手を止めて、渓へと斧を向ける。血液の抜け切った遺体だ、血は滴っていない。ただ白い脂肪片だけが、ぬるりと光っている。
「だめだ、真木さん、こいつらはいいよ?でも、そいつまで殺してしまったら」
鈍い痛みが後頭部に走った。殴られたと気がついたのは、地面に倒れた後。
「もう引き返せなくなってしまう。」
髪の毛を引っ張られる。首元に鈍い痛みが走った。
『Writted by ピコリ』